初めの一歩へと続く物語


千里の道も一歩から

 

どんな物事にも始まりがあります。

 

 

進み始めれば、流れに任せて進み続けることはそう難しくないのですが、

 

最初の一歩を踏み出すには勇気が必要なことが多々あります。

 

 

 

日本人の国民性もあってか、僕らは今まで通り(伝統)を好み、新しいものが好きだとしても新しいことを始めるのには億劫だったりします。

 

 

日本は住みやすい国で、生活に不満は人それぞれあれども生きていくのに困ることはほとんどないでしょう。

 

 

日本で生きていけば、なんとなく就職して、なんとなく生活して、なんとなく生きて、それなりに楽しい日々を送り、幸せそうに生きることはそう難しくないでしょう。

 

 

 

でもそれだけでは、やりたいことをやって、生きたいように生き、明日死んでもいいと思えるくらい今日を全力で生きることは出来ないように思います。

 

 

 

平凡な日常から抜け出して想像したことのない世界を見たいのならば、

一歩を踏み出さなければいけません。

 

 

4年半前、僕はその初めの一歩を踏み出しました。

 

 

それからの事、僕は日本を出る前には想像すらもしていなかった経験をたくさんし、

見たことがないものをたくさん目にし、

日本に住んでいては得ることが出来なかったものをたくさん得ることが出来ました。

 

 

 

最初の一歩を踏み出して、

 

これまで歩み続けてきて本当に良かったと思っています。

 

 

 

 

 

今日は、初心に戻って最初の一歩を踏み出す時の気持ち

 

 

 

最初の一歩を踏み出す前の気持ちを振り返ってみようと思います。

 

 

 

 

 

MITSが何を思い、何を求め、何を手放し、何を見つめていたのか。

 

 

今だからこそ分かる事を書いていきます。

 

 

 

 

学生から社会人へと踏み出すその間の物語

 

 

日本から世界へと飛び出す1歩を踏み出す前の物語

 

 

お楽しみあれ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

きっかけは、2011年の春、325日から331日にかけての後のだった

もっと言えばそのさらに年前、2010年の冬から春にかけて日本でインフルエンザが大流行したことだと言ってもいいかもしれない

 

 

 

僕が世界へと飛び出すきっかけは偶然の産物だと言っていいのかもしれない

 

 

 

僕の母校である神奈川衛生学園、通称KEGでは1年の終わりにアメリカ・カリフォルニア州で行われるアメリカ研修と3年の夏に行われる中国研修がある。

 

 

高校で一番苦手だった英語が母国語であるアメリカに興味を持つこともなく、一人暮らしでバイト生活に明け暮れて貯金など全くなかった僕に30万円もかかる1年の終わりのアメリカ研修に参加するつもりなど全くなかった。

アメリカ研修に興味が全くなかったと言えば嘘になるが、それは生活に余裕があるわけじゃない僕にとっては関わりのないものだった。

 

 

そのはずだった。

 

 

これは偶然以外の何物でもないのだが、僕らの代では1年の終わりにあるはずのアメリカ研修がキャンセルになった。

 

理由は、インフルエンザ。

 

アメリカ研修に行く予定の子たちが全員インフルエンザにかかって中止せざるを得なかった。

 

 

なんて理由だったらそれはそれで後々笑い話になるのだけど、実際のところは日本でインフルエンザが大流行したおかげでアメリカへの渡航に制限がかかった為である。

 

まあ、これはこれで思い出に残るエピソードになりうるものではあるのだけれど。

 

 

そういった事情があり、僕らの代ではアメリカ研修が1年生と合同で2年次の春休み中に行われることになった。

 

 

2年になり、一人暮らしの生活にも慣れ、スポーツ医学の知識がついてきたのもあり、30年進んでいると言われるアメリカのスポーツ医学への興味が湧いてきていた僕にとってアメリカ研修は借金をしてでも行ってみたい魅力的なものになっていた。

 

 

結果、僕は借金をした。

 

 

と言っても5万円を頭金にローンを組んで月々返済で2年かけて30万円を返すというものだ。

 

 

 

当時は借金をすることに抵抗がありとても悩んだ上での決断だったのだが、

これが僕の人生を大きく変える決定的な決断だったと今では言える。

 

 

もし、インフルエンザが大流行していなかったら。

もし、スポーツ医学を学んでいなかったら。

もし、ローンを組むという選択肢がなかったら。

 

きっと僕は今でも日本以外の国に出たことがない、

パスポートすら持っていない人間だっただろう。

 

 

なんせ僕の家族は未だ誰もパスポートを持っていないし、海外旅行に行ったことがないのだから英語が話せない僕が自ら海外に行こうなんて思うことはきっとなかっただろう。

 

もちろん、仮定の話だから何かのきっかけで僕が海外に出ることがあったのかもしれないことは否定できないのだけれどそれはまた別の話。

 

 

 

 

現実として、僕は今、海外にいる。

国というか実際いるのは船の上であり、海の上なのだが。

 

 

 

その最初のきっかけとなったのが2012年のったアメリカ修だった

そこで何があったのかは割愛するが結果として僕は海外にアメリカに憧れ日本を飛び出す決意をした

 

専門学校3、4月の初めのことだった

 

アメリカ研修から帰ってきてからのことは今でもよく覚えている

毎晩布団に入ってからは将来の想像を膨らませて興奮でなかなか寝付けなかったものだ

 

あの頃の僕は恋に恋する乙女のように夢に夢みる少年だった

 

 

 

俺はアメリカに行く

 

あそこで将来絶対スポーツトレーナーとして成功してやる

 

NFL, MLB, もしくはNBAのトレーナーになってやる!

なんて放課後の教室のホワイトボードにデカデカと書いていた。

 

 

しかし、不安が全くなかったわけではない。

 

 

 

まず、どうやってアメリカで暮らすのか。

 

そして、貯金が全くないのにお金はどうするのか。

 

そもそも将来絶対使わないと思って全然勉強してこなかった英語の問題もあった。

 

 

第一、アメリカに行けたとして必ず成功するわけではないし、

むしろ挫折して日本に戻ってくる確率の方が圧倒的に高い。

 

 

何の実績も無い、アメリカに行くと決めた時には学校の実習以外でのトレーナー経験が一切無いようなひよっこがポッとアメリカに行って成功できるほどスポーツの世界は甘くは無い。そんな世界だというのになぜ当時の僕は何とかなると思っていたのか。

今考えてみても自分で自分の自信を疑いたくなるくらいの考えの甘さ具合だ。

 

 

だけど、将来の夢と希望と未来への期待に胸を高鳴らせ、想像ばかりを膨らましていた僕にとってそれらの不安は些細なことでしかなかった。

 

 

事実、その頃の僕はやる気に満ち溢れていた為、興奮して眠れないことはあっても不安で眠れないことは一切なかった。

 

なんとかなるだろうという根拠の無い自信に満ち溢れていた。

 

全くもっておめでたいやつであった。

 

 

 

 

でもきっとそれが良かったのだろう。

 

 

不安に苛まれてアメリカ行きを先延ばしにしてお金が貯まってから行こう、

日本で経験を積んでから行こうと考えていれば結局海外に行くこともなく今頃きっと僕は日本で働き続けていたことだろう。アメリカに行きたいなんて想いを無かったことにして。

 

 

今まで将来海外で働きたいと言っていた多くの鍼灸師やトレーナーの知り合いで実際に今海外に出ているのは片手の指で足りるくらいしかいない。

 

 

根拠の無い自信がなければ僕もその一人になっていたことだろう。

 

 

 

 

 

僕は運が良かった。

 

これははっきり言えることだ。

 

 

たとえ根拠の無い自信があったとしても実際の海外に行くということは難しく無いことであっても簡単なことでは無い。

 

 

 

専門学校2年の夏に通帳残高が数百円の上、所持金がゼロの状態で家まで3時間はかかるという距離でバイクがガス欠になり家までどうやってたどり着くのか頭を悩ませていた時から大して貯金額が変わらない、むしろ借金を背負った状態の3年の夏から実際に海外へと飛び出すまであと約半年しか無い状況だった僕が本当に卒業と共にカリフォルニアへと飛び立てたのは、幾つかの幸運が重なったからに他ならない。

 

 

幸運その1

 

僕にはカリフォルニアに住んでいる親戚家族が居た。まあ、居たというか今も住んでいるのだけど。

アメリカに住んでいるという話は聞いていたのだけれど、カリフォルニアに住んでいるとは知らなかったのだが、たまたま行きたい場所に親戚が住んでいて留学するなら滞在させてもらえるとの事でこれで滞在費が大幅に浮いた。

きっとこれがなければアメリカ留学を断念せざる得なかっただろう。

 

幸運その2

 

両親が離婚し、父親と暮らしていた僕は、専門学校に行かせてもらえるだけで多大な負担を父親にかけていた。そして、これ以上お金の負担をすることは出来ないと父親に宣言されていた。そう、出したくても出せる金が僕には全くなかったのだ。そこでダメ元で頼ったのが、母親だった。母親は再婚して新しい旦那さんとの間に子供が出来ており、その子、僕の弟が小学生に上がったばかりでこれからお金がかかるという状況だった。僕はそれを知っている上で母にお願いをした。留学をしたいからお金を出してくれないかと。多分答えはNOだろうと正直諦め半分だった。

母親にもお金があったわけじゃない。これからの事、弟の事を考えればポンっと留学費用を出せる余裕などない。そこで母は祖父母に相談をしてくれて、祖父母が将来子供達(ちなみに母は5人兄弟だ)に分配する予定だった分のお金を先に母に渡すという事でお金を工面してくれる事になった。本当に感謝しかない。やりたいことをやらせてくれる両親に恵まれて本当に幸せだと思う。それでも飛行機代と学費と滞在費を引けばスズメの涙ほどしか残らないので、父親がほんの少しだけ援助してくれた。感謝感激雨霰である。それでも留学中は月に使えるお金が4千円でそれで全てをやりくりし日本に帰ってきた時には帰りの電車代すら無くてヒッチハイクで神奈川から名古屋まで帰ったというくらいの金欠具合だったのだが。

 

幸運その3

 

今のレートで言えば1ドルは104円くらいだが、僕が留学したいた当時は1ドル80円代で、一番落ちた時は1ドル78円まで円高が進んでいた。

1ドル20円も違えば、数千ドルする学費や飛行機代と滞在費を換算すれば5桁では収まりきらない金額差になる。

この円高がなければ到底留学なんて出来なかっただろう。

 

 

 

 

そんな幸運に恵まれ条件が整い、僕は無事にアメリカへと旅立てる事となった。

 

 

もちろん、自分で努力をして、削れるだけ経費を削ってやりくりしたし、

自分でバイトをしてお金も貯めた。

英語の勉強は学校の鍼灸の国家試験の為の勉強以外に時間を作って留学半年前から本格的に始めた。

 

 

アメリカ留学が決まる前から周りに自分は卒業したらアメリカに行くと宣言をし、

退路を絶っていた。ちなみに留学できると実際に決まったのは卒業の1か月半前のことだった。

 

 

 

専門学校最後の年はたくさんのことがあった年だった。学内でも学外でもたくさんのことがめまぐるしく起こっていたし、出席日数が足りず危うく卒業が出来なくなる危機もあったのだけれど、常に僕は前を見続け、最初の一歩を踏み出すための準備をし続けた。

 

 

 

 

無事に学校を卒業し、鍼灸の国家試験に合格し、2012年の3月27日に僕は日本を旅立った。ちなみに合格の結果を電話で学校へ確認したのは、飛行機の搭乗時間の1時間半前と直前だった。もし落ちていたら最悪な気分での渡航になっていただろう。それはそれで面白かったのだけれども。もし落ちていればそれはそれで全く違った人生になっていただろし。

 

 

最初の一歩までの道のりは決意をしてから約1年がかかった。

 

 

決して楽な道のりでは無かった。

たくさんの人の支えがあったからこそたどり着くことが出来た道だった。

将来への輝かしい期待と希望の光だけを周りには見せていたけれど、影ではそれが一瞬にして崩れ去るのではないかという不安が常に隠れていた。

 

この道しかないのだと他の選択肢になど目もくれず、その道を掴み取るために出来うる可能性を模索する日々は、楽しくとも大変な日々だった。

 

 

それでも僕の為に力を貸してくれた人の助けを無駄にしない為にも

何より自分がやりたいことをやる為に出来ること全てをやってきた。

 

 

 

最初の一歩を踏み出すその前は、様々な想いが渦巻いていた。

 

 

当時は付き合っていた彼女が居た。結婚も頭の片隅によぎるくらいには考えていた。

 

 

 

いろいろな想いの中で一番強い気持ちに僕は従って最初の一歩を僕は踏み出した。

 

 

 

 

 

 

それは今でも変わらない。

 

 

 

自分が夢見る舞台へと立つ、その時へのワクワクする気持ち。

 

 

 

ワクワクする気持ちが僕の行動の原動力だ。

 

 

 

ワクワクしなくなったらきっと僕の歩む道はそこまでなのだろう。

 

そして僕はきっと次の道へと歩み出す。

 

 

 

 

だけど今でもあの春に灯った情熱の炎は消えていない。

 

常にワクワクする自分の気持ちに従い僕は行動している。

 

 

 

明日死んでもいいと思える日々を生きている。

 

この物語はまだ終わらない。

 

序章の物語はここまでだが、2章、3章と続く僕の物語はまだ起承転結でいう承の章に足をかけたところだ。

 

 

この物語はまだまだ終わらない。

 

 

To be continued…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日は、以前コメントで受けた質問に一人語りの物語形式で答えさせて頂きました。

 

 

物語を書いたことのない僕にとってはちょっとした挑戦でしたが、

皆様に楽しんで頂けたのなら幸いです。

 

 

MITSがどんな人生を歩み、この物語がどんな結末を迎えるのか、大いに期待して見守ってもらえたらと思います。

 

 

 

 

 

今後もブログではいろいろな形式で記事を書いていこうと思っていますので、

どんな形の記事が飛び出すのか楽しみにしてもらえたらと思います。

 

 

 

何かMITSに聞きたいことがありましたらコメント問をいてければ

またこのような形で記事として回答させて頂くと思います

 

 

個人的な内容の質問でしたら個別にメールで直接やり取りさせて頂きますので

プロフィール欄に書いて有るメールアドレスに連絡するか、コメント欄にメールアドレスを付けてメッセージを残してもらえたらと思います。

 

 

 

更新頻度が低い気ままなブログですが、今後とも宜しくお願い致します。

 

 

MITS


モニュメントバレーへと続く道

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